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見性院(けんしょういん、1557年(弘治3年)- 1617年12月31日(元和3年12月4日))は、戦国時代から江戸時代にかけての女性で、土佐国土佐藩初代藩主、山内一豊の正室である。本名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが、定かではない。夫に馬を買わせるために大金を差し出した話や、笠の緒文などの様々な逸話で知られ、良妻賢母の見本とされる。正式な法号は見性院殿且潙宗紹劉大姉〔小和田・榛村、250頁。〕。 ==出自== 出自は諸説あり、『寛政重修諸家譜』の山内氏系譜によれば、浅井氏家臣の若宮友興の子である説が有力とされており〔小和田、85-86頁〕、近江国飯村(現在の滋賀県米原市飯)で生まれたとされている〔山本、52-53頁。〕〔週刊朝日編集部、18頁。〕。この説では、一豊の母が、飯村のある宇賀野の長野氏のもとに身を寄せており、近隣の娘たちに縫物を教えていたが、その中に若き日の見性院がいて、目に留まったとされる〔小和田・木嵜、67頁。〕。その一方で、岐阜県郡上市の慈恩寺が所蔵する美濃郡上八幡城主・遠藤氏の系図に、東常縁の子孫である〔渡部、37頁。〕遠藤盛数の娘が山内一豊室であるとの記載があったことなどから、遠藤盛数の子説も有力になってきている〔週刊朝日編集部、27頁。〕〔小和田、87-88頁。〕。また見性院が、遠藤盛数の孫遠藤亮胤を山内家に仕官させるよう言い残したことも盛数の子説の根拠である〔小和田・榛村、172頁。〕。さらに安藤守就(一豊の姉、通の夫である安藤郷氏の兄)の娘説や、同じく美濃の豪族である不破重則の妹説もある〔渡部、38頁。〕。 見性院の名には千代とまつの2通りがあり〔小和田・榛村、101頁。〕、「まつ」の名は、討ち死にした若宮友興の娘「おまつ御両人」に宛てた浅井長政の安堵状が存在することによるが、このまつは一豊ではなく山内氏家臣の五藤為重に嫁いだとされている。しかし、結婚後千代と名を改めた可能性もある〔。一方「千代」の名は、後述する新井白石が『藩翰譜』に記したエピソード中に出てくるが、こちらは一豊の養子となった山内忠義の実母の名と混同ともいわれ定かではない。他にも、忠義の父で一豊の弟である康豊の後妻妙玖院が、千代であったとする説もある〔渡部、39頁。〕。 山内家には『東常縁筆古今集』はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が、隠居の際京にも携えてきて愛用した和歌集だったが、死去に当たり養子の土佐藩主・山内忠義に京の邸宅共々形見として渡すよう、養子の湘南宗化を通じて遺言したものである。またその後、湘南は遺品の香箱やビロードなども忠義に届けさせ、自らは見性院の隠居料1000石を遺贈された〔山本、299-300頁。〕。また日頃から古今集や徒然草などを読み、書も巧みであった〔山本、301頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「見性院 (山内一豊室)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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